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 戦艦・大和は未だ、東シナ海の底に沈んでいる――



 11/25。

 「男たちの大和/YAMATO」試写会。

 どうしようもなくボロ泣きでした。

 つーか後半ずっと泣いてたんじゃないだろうか俺……。

 これは、本当にオススメです。もっぺん見に行くかも知れません。

 はあああ……また彼女の前でボロ泣きだよアタイ……泣きすぎ。



 まぁ何にしても、彼女と会えたし、相談ごとも出来たし、ガッコサボって行った甲斐はあったと思います(笑)



 以下すっげ長いネタバレ感想。

 出来ることなら読まずに映画館行ってください……。

 いやむしろ読んで触発されてください。そんな文章力ないけど。

 12/17からだそうで。






 まず、60年も前にこの国が、こんな戦艦を作っていたのだという事実に驚きました。

 そして、たった60年前に、この戦艦は戦い、そして沈んでいったのだという、紛れも無い事実に驚愕しました……。





 始まりは、2005年。大和上船員の数少ない生き残り、神尾の元に、内田真貴子と名乗る一人の女性がやって来る。彼女は、かつての神尾の上官・内田守(中村獅堂)の養女。内田が戦後生きていたことを知って驚愕する神尾。どうしても大和沈没地点へ行きたいという真貴子と、神尾の船弟子・新米猟師の敦を連れて荒波へ船を出す。その道中、回想が始まる。

 回想から始まる史実ものは多いですが、これはそこここに散りばめられた当時の映像(実録)によって、これは本当にあったことなのだとじりじりと迫ってくるものがあって、背筋が伸びました。

 終戦間近の昭和16年12月に、広島県・呉市で完成した大和。そこに、19年2月、兵の数が足りず実質15,6の少年たちが乗る。

 憧れを以って乗り込む少年たちが非常に痛々しい……。

 しかし、大和はホントに美しいです。巨きい。高い。船というよりむしろ城。

 そこに、異彩を放つ二人の下士官。

 部下を守ったり上司に逆らったりの熱い男、二等兵曹機銃射手・内田守と、その問題児の世話焼き、頼れる兄貴の烹炊班班長・森脇庄八(反町隆史)。

 この二人の友情がとにかく厚い……熱いッス……!!

 反町のエプロン(?)(つーかあれも制服なんだろな白い)姿とかめっちゃ萌え……!!

 上官殴って銃座に隠れた内田に森脇がメシ持ってくシーンとかもうどうしようかと思った……!

 ……すんませんこんな時まで不埒な見方_| ̄|〇;

 ともかく、大和での仲間を認めていく神尾少年。

 一度二度、故郷(広島)に帰るシーンとかあるんですけど、その時の衣装が白軍服なんですよ……!!

 似 合 い す ぎ !!

 普通の紺軍服もカッコイイんだけど。

 つーか、下官はセーラーで、士官になると詰め襟なのね……今の学校の制服の男尊女卑かい。男にもセーラー着せんかい。百歩譲ってスカートはいいから(どんな譲歩だ)。

 そうそう、「男たちの」といってるだけあって、「しかし男たちばかりでなく、大和によって運命を翻弄されていく女性たちの姿をも描いています……云々」とかいってますが、実際は言うほど女性は出てきません。結局のところ、待つということでしか(国の為に工場で働くとかそういうことであったとしても)いられない女性たちです。むしろそれでいいと思ってます。出てくるところは出てきて、決して無理やり出番作って詰め込んだりしてなくて、非常に好印象。結局戦争で表舞台に絶って命張って戦ったのは男で、大和に乗っていたのは男だけだったのだから、大和の話を描くなら、それは当たり前なんです。ただ、チラシや司会者が「いやいや、女性だってちゃんと出てますよ〜」と押し付けがましく言うのは如何かと……。

 まあとにかく、大和初めての戦闘へと向かうんですが、結果ボロ負けするんです。

 神尾たち少年兵は仲間の死を知り、戦争というものを知る――そして撃たれた上官に代わって指揮を取っていた内田は、重傷を負い片目を失くし、呉の病院に収容される。

 そして、沖縄へと帰らぬ航路を辿ることが半ば決定した、最後の帰郷。

 入院している内田に向かって、窓の外の桜を見ながら森脇が言うんです。



「散る桜、残る桜も散る桜、だ。」



 日本人で良かったと、こんなに思った瞬間はありませんでした。

 生き延びたところでいずれ人は死ぬのだと、どうしようもない摂理を、しかしこの表現で切実に伝わるのはおそらく日本人だけです。

 結局、回復してない内田は、軍規違反にも関わらず軍病院を抜け出し、沖縄へと向かう大和へと忍び込む。

 ここでの森脇とのやりとりは、本当に泣けます……。

 世界最強の大和に乗れた誇り、3年間共に過ごした仲間と、この船と共に死ぬことを、どれだけ望んでいるかということを語る内田。

 それに、阿呆と罵倒で返す森脇……。

 でも多分、どっちも解ってる。二人とも阿呆で、でも望んでいることが。

 そしてもう一人、内田・森脇と旧知の士官、唐木という人がいるのですが、この人の説得は、本当に理不尽なのに納得してしまう。

 沖縄へ特攻する前夜、飛行機の援護は一機たりとも無い攻撃に、「これでは自分たちの死は無駄死にだ」「自分たちの死の意味が知りたい」と兵士たちが上官につっかかる。

 そこに止めに入った唐木がこんなことを言う。



「日本は目覚めねばならん。目覚めには犠牲が付き物だ。維新にしたって、攘夷志士は外来式の武器を使って幕府を倒した。この国には再び変革が必要だ。いづれ気付く時が来る。その時の為の一歩に、我々がなろうじゃないか」



 これは、本当に泣ける。納得してしまう。(もっと凄いこと言ってたんだけど、うまく書けない……)

 これは、今の考えでいけば、過ちに気付くために何万もの命が犠牲にならなきゃいけないなら、それは人間はやっぱり馬鹿なんだとしか言いようが無いのだけれども。

 でも、もし戦争で死んでいった彼らが、一人でも多くこんな考えを持って死ねたなら、少しは報われたんじゃないかと思う。

 でもそれはやっぱり間違ってると思うけど。

 救いようの無い、「今」の(当時の)馬鹿な国の為よりは、「未来」の国の為に死んで行けたほうが救いはあるかもしれない。

 ……彼らが願った国になっているかどうかは別として(先のことはわからないからそれこそが救いなのかもしれないが)

 そして最後の戦闘シーン。

 思えばたった三年で、大和は特攻艦としての役目を与えられたのであって、戦闘経験も一度しかないという短命。美人薄命とはまさにこのこと。いや、冗談でなく。本気で。

 まさに砲弾と血の雨を浴びて、崩れていく城。

 周りは屍が積みあがり、それでも生きている内田と森脇、そして神尾。

 勝ち目などもう無いのに、ひたすら撃ち続ける神尾は、もう多分何も見えてなったんだと思う。

 敵機にも中らないのに、砲弾を詰め、ひたすらに撃つ。

 撃ち続けなければ、戦い続けなければいけないという、強迫観念というよりはむしろ、存在意義に近しいもので動いていたのだと思う。

 たぶんそういうなにかわけのわからない、狂気に近いものが、戦争を動かしてるんだと思った。

 それでも内田と森脇は、神尾を逃がすため、銃座から引き摩り下ろす。

 それは多分、生き残らなければ伝えられないことが、伝えなきゃいけないことが、この戦争には沢山あるんだと、あの二人が解っていたからだ。

 果たしてそれが、一体どれだけこの国の人間に伝わっているんだろう。

 タイタニックのごとく、傾いていく大和――しかしその姿は、タイタニックより遥かに悲しく美しい。

 甲板を滑り落ちていく神尾。

 その大和で、まだ撃ち続ける内田と森脇。

 多分それは狂気じゃなくて、信念であったと思う。

 海に落ち、奇跡的に助かった神尾は、しかし約束を交わした少女は被爆し、更におめおめと生きて戻った屈辱を抱えて60年生きていくことになる。

 今でこそ、生きていることが一番大事と言うけれど、当時は御国のために死ねないならば生きている意味など無いと、そういう風潮だったから。

 伝えるも何も無い、その場で死なねばならなかった。

 でもそこですべて死んでいたら、大和を伝える人は一人もいないのであって――ああ、でもそれはこの時点から遡って見た感想でしかない。

 だが、ラストで回想から戻った神尾は、内田の娘を大和沈没地点へ連れて来ることによって、自分が今まで生きてきた意味を悟る。

 内田の骨を海へ流す真貴子。

「内田二等兵曹、ただいま戻りました……!」

 敬礼する真貴子と神尾、そして敦。

 遺骨を流すとか、敬礼するとか、何処かの映画で使い古されたシーンだけど、ここまで感動的なシーンはありませんでした。

 映画でここまで泣いたのははじめてかもしれない……。

 ひとりで拍手してました。(便乗して何人かしてたけど)





 実は、戦争映画が嫌いです。「火垂るの墓」なんて、ちゃんと見たことは一度もありません。

 ようするに見て見ぬ振りをしてきたのですが。

 どうしようもないことに対する罪悪感が浮かんでくるからで。

 戦争は、もう終わってしまったことで、過ぎてしまったことで、それに対して何を言っても始まらなくって、それを未来に生かしていかなきゃならないんだってわかってるけど。

 でも、自分が知らない、生まれてすらいない時代に対して、「もう少し他にやりようがあったんじゃないか」と憤る。残念ながら、他にやりようなんて無かったんです。もしもう少しでも上手いやり方が、人を死なせずにすんで、平和的な解決の方法があったなら、それはその時点で、我々のおそらく大半は生まれてすらない。

 だからここでこうしてのうのうと生きてる自分に、ひどく罪悪感を感じる。

 我々には覚悟も何も無い。ただ幸せな人生を謳歌している。垂れ流している。もしあの時代、あそこで死んだ彼らと生を取り替えたなら、彼らはもっと精力的に、この時代を生きていくだろうに。

 そんな不毛なことを考える。わかっている、たとえ彼らがこの平和な世界に生を受けたとて、ここでは生きていけないだろう。

 この映画を見てわかったのは、この罪悪感がやはり当てはめるべきは間違いだということだ。

 ただ、無くしてはいけない。

 もし彼らが、その「先」の日本の為に戦ったというのなら、そこに、未だに残る戦争の記憶や傷跡や、そして各国との確執の答えも見えてくるんじゃないかと思う。

 人殺しであることは間違いない。だがその子孫として生きている我々が、それに感謝し奉ることが何故いけないのか、とか。

 彼らにとって我々は「未来」だ。その為に、何処も戦ってきたのに、まだその問題でぎゃいぎゃいやってるのは、それこそ冒涜なんじゃないのか。そんなことするくらいなら、いっそ捨ててしまったところで誰も恨まない。

 何故、今「YAMATO」なのか。

 これは観なければ解らない。







 作中、一兵卒と何代目かの艦長(だったと思う)が交わした、こんなシーンがある。



「武士道と士道の違いは、簡単に言えば、

 武士道は何の見返りも期待せず死ぬことであり、

 士道は死ぬ覚悟を決め、誰にも恥じることのない生き方をすることだ」

「死ぬ覚悟と生きる覚悟と取ってよろしいですか」



 彼がどちらを選んだのかはわからない。

 だが、それがどれだけ美意識を抱えていようと、どれだけ本邦の根源に根ざしていようと、どちらにせよ死ぬことを意識している。

 それをせずに生きていくことができる自分たちはどれだけ幸福なのだろう。

 ただ生きることだけを考え、いや、生きることすら考えず、のうのうと生きていける。

 ゆえに生命の重さもわからない人間が増えた。

 このままいけば、また再び命が軽く見られる日が近づいてくる。

 そうなった場合、もう人類が滅びるまで軌道修正は利かない。

 無駄に力を持ち過ぎた。

 YAMATOを観ながら、大和の乗組員を応援するのだけれど、でも撃っている米軍機にも人が乗っているのだということが、頭から離れなかった。そんな描写は一欠片も無いのに、これは殺し合いなんだ、どっちも人をころしているんだと思って、やっぱり正義なんてものは相対的なもんなんだと思った。

 そういうことを考えられるのは今が平和だからで、そして日本が国際的だからで、相手も同じ人間なんだと思えるのは本当に幸せなのだ。

 それがいずれ、必ず散る桜であっても。
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